よそおいの話

織田哲郎はなぜ90年代を独占できたのか|450曲を数えてわかった設計

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ZARD「負けないで」「揺れる想い」、B.B.クィーンズ「おどるポンポコリン」、TUBE「シーズン・イン・ザ・サン」、DEEN「このまま君だけを奪い去りたい」、中山美穂&WANDS「世界中の誰よりきっと」。

全部、同じ人が書いた曲です。

織田哲郎さん。1978年から他のアーティストに曲を書き続けている作曲家で、1993年にはオリコンの年間チャート作曲家部門で、史上初の年間売上1000万枚超えを記録して1位になっています(オリコン年鑑1994年版)。

ぼくが公開されている提供楽曲の一覧を1曲ずつ数えたら、1978年から2023年までで450曲ありました。

そして数えていて一番おどろいたのは、曲数ではありません。90年代に入って、この人が書く曲の本数はほとんど増えていなかったことでした。

織田哲郎さんはどんな人か

織田哲郎さんは、1978年にバンドのコーラス参加から音楽活動を始め、翌1979年から他アーティストへの楽曲提供を始めたソングライター・音楽プロデューサーです。長戸大幸さんが率いるビーイングの中心的な作家として、90年代のヒット曲を量産しました。

最初のミリオンセラーは1990年、B.B.クィーンズの「おどるポンポコリン」。ここを起点にビーイング系のヒットが連鎖し、1993年にZARDの「負けないで」「揺れる想い」、DEENの「このまま君だけを奪い去りたい」が立て続けにミリオンを記録します。1993年6月28日の週間シングルチャートでは、ビーイング系の楽曲が1位から6位までを独占しました。

1995年からはロカビリーバンドMAGICや相川七瀬さんのプロデュースに軸足を移し、1998年にZARDの「息もできない」を最後にビーイングを離れています。

ここまでは、ヒットメーカーの成功譚として語られる範囲です。でも450曲を年ごとに並べ直すと、この人のやり方は、ヒットの作り方として語られる常識とだいたい逆でした。

ヒットメーカーの通説 数えて出てきた織田哲郎さんの設計
売れ始めたら量産する 年間の曲数はほぼ横ばい。増やしていない
当たった相手に集中する ピークの年ほど提供先が分散している
短期間で駆け上がる 最初のミリオンまで12年、161曲
売れている間に売り切る 独占の翌年、本数を3分の1に落としている

設計1:売れないまま、12年で161曲書いている

織田哲郎さんが他人に曲を書き始めたのは1979年です。最初のミリオンセラー「おどるポンポコリン」は1990年。12年空いています。

その12年間に何をしていたか。数えると、1978年から1989年までで161曲を書いていました。450曲の3分の1以上が、世間がこの人の名前を知る前に書かれた曲です。

内訳を見ると、もっとはっきりします。この161曲のうち、シングルとして出たのは21曲だけ。残りの140曲はアルバムの中の曲やカップリングです。1987年など、31曲書いてシングルは4曲しかない年もあります。亜蘭知子さんのアルバムに9曲、清水宏次朗さんのアルバムに7曲、といった書き方をしていた時期です。

チャートに出ない場所で、10年以上、量を書き続けている。藤井風さんがデビュー初日から深かった理由を調べたときにも同じ構造に行き当たりましたが、いきなり出てきたように見える人ほど、見えないところの在庫が厚いです。

マーケティングの現場でも、これは同じだと思っています。急にうまくいったように見える施策には、たいてい表に出ていない試行の山がある。ぼくが博報堂にいた頃、うまくいった企画の裏には、通らなかった企画書が何十本もありました。通らなかったものを数えないから、成功が突然変異に見えるだけです。

設計2:量を増やしたのではなく、置き場所を変えた

90年代にミリオンを連発し始めたあとも、織田哲郎さんが書く曲の本数はほとんど増えていません。1978年から1989年で161曲、1990年から1999年で181曲。1年あたりにすると13曲台から18曲台へ、少し増えた程度です。

数えていて、ここが一番おどろいた部分でした。

変わったのは、内訳のほうでした。

総曲数 うちシングル
1978〜1989年 161曲 21曲
1990〜1999年 181曲 104曲

総数は1.1倍。シングルは5倍です。

年単位で見るとさらに極端で、1987年は31曲書いてシングルは4曲。ピークの1993年は20曲でシングルが18曲です。書いた本数だけを見れば、1987年のほうが多い。

つまり90年代の独占は、たくさん書いた結果ではありません。同じ本数を、人の目に触れる場所に置き直した結果です。

マーケティングの言葉にすると、生産量を増やしたのではなく、配荷を変えた。同じ商品を、倉庫からレジ前の棚に移した。それだけで売上が5倍になることは、実際にあります。制作の量を増やす前に、いま作っているものがどこに置かれているかを数えたほうが早いことは多いです。

設計3:勝っている年ほど、提供先を分散させている

1993年の20曲を、提供先ごとに並べ直してみます。

ZARDに4曲、DEENに3曲、MANISHに3曲。そしてWANDS、ZYYG、T-BOLAN、大黒摩季さん、Wink、宇徳敬子さん、坪倉唯子さん、浜田麻里さん、DORA、テレサ・テンさん。13組に散っています。

普通なら逆をやります。ZARDが当たったなら、ZARDに集中して書く。当たった型を、当たった相手で回収する。

でもこの年、織田哲郎さんの曲は13組の別々の名前で、同じ週のチャートに並んでいました。1993年6月28日にビーイングが1位から6位を独占したとき、そこに入っていた織田さんの曲は「揺れる想い」と「君が欲しくてたまらない」の2曲です。1人の作家が6枠を埋めたのではなく、別のブランドとして分散していたから、6枠まで取れた。

これは、P&Gがひとつの棚に複数の洗剤ブランドを並べるのと同じ構造です。同じ会社の商品だと消費者に思われた瞬間、共食いが始まる。別のブランドに見えているあいだは、棚を全部取れる。

ビーイングがアーティストをテレビにあまり出さなかったことも、この設計と噛み合っています。作り手が黒衣に徹して、歌う人の顔も出しすぎない。だから聴き手の側で「これも織田哲郎」と接続されないまま、13の別々の世界として成立していました。アソビシステムが15年、同じものを配り続けている話とは対照的で、あちらは「同じ世界観だと分からせる」設計、こちらは「同じ作り手だと気づかせない」設計です。どちらも、意図してやると強いです。

設計4:独占の翌年、本数を3分の1に落としている

1993年20曲。翌1994年は7曲です。

年間1000万枚を超えた翌年に、書く量を3分の1にしている。データだけを見れば、いちばん需要が高い年に供給を絞ったことになります。

そして1995年以降、この人がいちばん多く曲を書いた相手は、ZARDでもTUBEでもありません。相川七瀬さんです。450曲のうち62曲。2位のTUBEとZARDが21曲ずつなので、3倍近い差があります。

ヒットの中心にいた作家が、ヒットの絶頂で降りて、新人のプロデュースに移っている。1998年にはビーイング自体を離れています。

ここは解釈が分かれるところですが、ぼくはこう読みました。ヒット曲の作り手として消費され続けると、名前が「90年代の人」に固定されます。固定される前に、次の文脈に移った。ブランドで言えば、いちばん売れているカテゴリーで刈り取り続けるのではなく、売れているうちに次のカテゴリーへ投資を移したことになります。

独立してから、ぼくもこの判断の難しさが少し分かるようになりました。いま単価が出ている仕事を減らして、まだ売上になっていないものに時間を移すのは、単年で見ると必ず損に見えます。それでも移せるかどうかで、3年後の看板が変わります。

450曲を数えて、わかったこと

数える前に想像していたのは、90年代に爆発的に量産して、それが全部当たった人という像でした。実際は違いました。

12年かけて161曲を、ほとんどチャートに出ない場所で書いている。その在庫があるところに、ビーイングという配荷の仕組みが乗った。量は変えずに、置き場所だけを変えた。当たったら集中せず、13組に分散させて棚を広く取った。そして絶頂で本数を落とし、次の相手に移った。

ヒットの正体は、才能の総量ではなく、在庫と配荷と分散の設計でした。

もうひとつ、数えないと見えないことがありました。450曲のうち、シングルは174曲です。残りの276曲、6割以上はアルバム曲とカップリングで、ほとんどの人が一度も聴いていません。ヒットメーカーと呼ばれる人の仕事の6割は、ヒットしていない曲です。

玉屋2060%さんの105曲を数えたときにも、同じことを思いました。表に出ている数曲だけを見ていると、その人の仕事の大半は存在しないことになります。地味に数えないと、設計は見えないです。

よくある質問

Q. 織田哲郎さんの代表曲は?

ZARD「負けないで」「揺れる想い」、B.B.クィーンズ「おどるポンポコリン」、TUBE「シーズン・イン・ザ・サン」、DEEN「このまま君だけを奪い去りたい」「翼を広げて」、中山美穂&WANDS「世界中の誰よりきっと」、WANDS「いつまでも変わらぬ愛を」などが代表曲として挙げられます。

Q. 織田哲郎さんは何曲、他のアーティストに提供していますか?

公開されている提供楽曲一覧を年代順に数えると、1978年から2023年までで450曲です。内訳はシングル174曲、アルバム曲222曲、カップリング48曲でした。集計の仕方によって数字は前後します。

Q. いちばん多く曲を提供した相手は誰ですか?

相川七瀬さんで62曲です。アルバムのプロデュースをまとめて手がけているため曲数が多くなっています。次いでTUBEが21曲、ZARDが21曲です。

Q. 1993年のオリコンの記録とは?

オリコンの年間チャート作曲家部門で、史上初となる年間売上1000万枚超えを達成し、1位を獲得しています。同年6月28日の週間シングルチャートでは、ビーイング系の楽曲が1位から6位を独占しました。

Q. なぜビーイングを離れたのですか?

1995年頃からMAGICや相川七瀬さんのプロデュースに軸足を移し、1998年のZARD「息もできない」を最後にビーイングを離れています。理由は公開情報からは断定できませんが、提供曲の推移を見ると1994年の時点ですでに本数を大きく落としていて、段階的な移行だったことがうかがえます。

(この記事の曲数は、公開されている提供楽曲一覧をもとに2026年8月12日時点でぼくが集計したものです。ソロ名義の曲、カバー、リミックス違いは含めていません)

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