最終更新:2026年10月12日
アンゾフの成長マトリクスとは、事業を伸ばす方向を「市場(既存/新規)」と「製品(既存/新規)」の2軸で4つに分けたフレームワークです。4つのマスは市場浸透・新市場開拓・新製品開発・多角化。経営学者のイゴール・アンゾフが1957年の論文で示しました。結論から言うと、このマトリクスはどの戦略を選ぶかを決める道具というより、いま進めている打ち手がどのマスの挑戦なのかを自覚するための道具です。この記事では4つの戦略の一覧と事例、出典、3C分析やSWOT分析との違い、実務での使い方までまとめます。
アンゾフの成長マトリクスとは?4つの戦略一覧
アンゾフの成長マトリクスは、「誰に売るか」と「何を売るか」がそれぞれ既存か新規かで、成長戦略を4つに分類した表です。左上の市場浸透から右下の多角化に向かうほど、知らないことが増え、失敗したときの痛みも大きくなります。
4つの戦略の中身は、次の表のとおりです。
| 戦略 | 市場×製品 | 何をするか | 打ち手の例 | 知らないこと |
|---|---|---|---|---|
| 市場浸透 | 既存市場×既存製品 | いまのお客さんに、いまの商品をもっと買ってもらう | 購入頻度を上げる施策、競合からの乗り換え、まとめ買いや定期購入 | ほぼない |
| 新市場開拓 | 新規市場×既存製品 | いまの商品を、まだ買っていない層や地域に届ける | 海外展開、若年層向けだった商品を中高年へ、個人向けの商品を法人へ | 市場(相手の買い方・言葉・流通) |
| 新製品開発 | 既存市場×新規製品 | いまのお客さんに、新しい商品を出す | 既存顧客向けの新シリーズ、関連商品、上位プラン | 製品(作り方・品質・原価) |
| 多角化 | 新規市場×新規製品 | 新しい相手に、新しい商品で挑む | 本業の技術を別業界の商品に転用する、異業種への参入 | 市場と製品の両方 |
表の右端の「知らないこと」が、このマトリクスの本当の読みどころだと思っています。市場浸透は、相手も商品もよく知っている場所での勝負です。新市場開拓と新製品開発は、どちらか片方だけが未知。多角化は両方が未知なので、経験の貯金がほとんど効きません。
事例としてよく引かれるのが、写真フィルムの市場縮小に向き合った富士フイルムです。フィルムづくりで培ったコラーゲンや抗酸化の技術を、化粧品「アスタリフト」や医療・ヘルスケアの分野へ広げていきました。写真の世界から見れば、相手も商品もまったく新しい。典型的な多角化です。ただ、技術という一本の糸はつながっていました。多角化が「何の関係もない事業への飛躍」ではなく、手持ちの強みを別の市場へ運ぶ動きとして成立した例として読むと、マトリクスの使い方が見えてきます。
出典はアンゾフの1957年の論文「多角化のための戦略」
アンゾフの成長マトリクスの原典は、イゴール・アンゾフ(H. Igor Ansoff)が1957年に「ハーバード・ビジネス・レビュー」に発表した論文「多角化のための戦略」(Strategies for Diversification)です。論文の主題は題名のとおり多角化で、多角化をほかの3つの成長の道と並べて位置づけるために、製品と市場の組み合わせが整理されました。
アンゾフはロシア生まれのアメリカの経営学者で、航空機メーカーのロッキード社で企業の計画づくりに携わったあと、大学に移って研究を続けた人物です。1965年の著書「企業戦略論」(Corporate Strategy)では、この考え方を「成長ベクトル」として発展させ、事業どうしが力を貸し合う「シナジー」の考え方とあわせて論じました。日本で「アンゾフの成長ベクトル」と呼ばれることがあるのはこのためで、成長マトリクスと成長ベクトルはほぼ同じものを指しています。
アンゾフが「戦略経営の父」と呼ばれるのは、経営に戦略という言葉を本格的に持ち込んだ一人だからです。現場の実務家が便利に使ううちに名前がついたフレームワークと違って、出典がはっきりしている点はこの道具の強みだと思います。
多角化そのものも、日本の教科書ではいくつかに分けて紹介されることが多いです。いまの事業と同じ顧客に向けて広げる水平型、原材料や販売など川上・川下に広げる垂直型、技術や販路のつながりを生かす集中型、つながりの薄い分野に出る集成型(コングロマリット型)。富士フイルムの例は、技術のつながりを生かした集中型に近い動きです。
3C分析・SWOT分析・ランチェスター戦略との違い
アンゾフの成長マトリクスは「どの方向に伸びるか」を分類する道具で、3C分析やSWOT分析のような「いまの状況を把握する」道具とは役割が違います。現状分析の結果を受けて、打ち手の方向がどのマスに入るかを確かめる。順番としては分析のあとに来るフレームワークです。既存の製品がプロダクトライフサイクルのどの段階にいるかを見ておくと、浸透を続けるか、別のマスに移るかの判断の時期も読みやすくなります。
よく一緒に使われる道具との違いを並べると、次のようになります。
| フレームワーク | 何を見るか | アンゾフとの関係 |
|---|---|---|
| 3C分析 | 市場・顧客、競合、自社の状況 | どの市場に勝ち目があるかの材料。アンゾフの「市場」の判定に使う |
| SWOT分析 | 強み・弱み・機会・脅威 | 強みを生かせる機会がどのマスにあるかを探す前段 |
| プロダクトライフサイクル | 製品が導入・成長・成熟・衰退のどこにいるか | 成熟や衰退が見えたとき、次の成長をどのマスに求めるかを考えるきっかけ |
| ランチェスター戦略 | 強者と弱者で戦い方を変える | 弱者はマスを広げるより、市場浸透の一点集中から始めるほうが筋がいい |
特に小さな事業では、ランチェスター戦略との組み合わせが効きます。規模の小さいプレイヤーが最初から多角化に出ると、知らないことが多すぎて資源が分散します。弱者が狭い場所で勝ち切る考え方はランチェスター戦略とは?弱者の戦略5原則と小さな事業での使い方に書いたので、あわせて読むとアンゾフの左上から始める理由が腹に落ちると思います。
市場浸透の代表的な打ち手であるクロスセルやアップセルも、マトリクスの左上に入ります。既存のお客さんに関連商品や上位プランをすすめるのは、相手も商品も知っている場所での勝負だからです。具体的な違いと使い分けはクロスセルとアップセルの違いとは?ダウンセルも含めた一覧表と使い方にまとめています。
実務での使い方──いまの打ち手が、どのマスの挑戦かを自覚する
アンゾフの成長マトリクスは、戦略を考え出すためではなく、いま進めている打ち手がどのマスの挑戦なのかを検算するために使うと効きます。マスが分かれば、必要な時間も、許される失敗の数も、成果の測り方も変わるからです。どのマスに進むかは戦略の層、マスの中で何を打つかは戦術の層の判断で、この区別は戦略と戦術の違いで詳しく書いています。
ぼくが実務で使っている手順は、次の4つです。
- 進めている施策や計画を、一行で書き出す(例:「既存の商品を、新しくシニア層に売る」)
- 市場と製品のそれぞれが既存か新規かを、自社の都合ではなく相手の目から判定する
- 入ったマスについて、「知らないこと」を具体的に書き出す
- 予算・期間・KPIが、そのマスの難しさに見合っているかを確かめる
大事なのは2つめと4つめです。広告会社にいた頃、「新しいターゲットを取りに行きたい」という相談にはたくさん出会いました。言葉の上では既存商品の延長に見えても、相手の生活や買い方がまったく違うことがあります。それは市場浸透ではなく新市場開拓です。なのに、いつものお客さんに向けたのと同じ伝え方と同じ期間で成果を求めてしまう。マスの見立てがずれていると、施策そのものより先に、期待値の設計で負けてしまいます。
2つめの判定で迷いやすいのが、「市場」の線引きです。年代や地域が同じでも、決裁の流れや信頼される言葉が違えば、それは別の市場として扱ったほうが安全です。逆に、属性が違って見えても、同じ場面で同じ理由から商品を選んでいるなら、既存市場の延長として浸透の手法が通じることもあります。迷ったら、相手の買い方と使う言葉が変わるかどうかを判定の基準にすると、ぶれが小さくなります。
3つめの「知らないこと」の書き出しは、マスごとに中身が決まっています。新市場開拓なら、相手がどこで情報を集め、誰に相談して、何を決め手に選ぶのか。新製品開発なら、品質をどう担保し、原価がいくらになり、既存の商品と食い合わないか。書き出した項目が多いほど、最初の数か月は売上より学びを成果として数えたほうが、判断を誤りにくくなります。
多角化に挑むときは、4つめの検算が特に効きます。市場も製品も未知なのに、既存事業と同じ期間で黒字化を求めると、学びが出そろう前に撤退の判断が来てしまう。多角化そのものが悪いのではなく、多角化を市場浸透と同じ物差しで測ることが失敗の原因になりやすいのだと思います。新製品の種を探すときは、既存のお客さんが本当は何を片づけたいのかから考えると外れにくくなります。その考え方はジョブ理論とは?要約と事例でわかるJTBD、ペルソナとの違いが参考になると思います。
アンゾフの成長マトリクスは古い?2026年に使うときの注意点
アンゾフの成長マトリクスは1957年生まれの古い道具ですが、2026年のいまも十分に使えます。ただし、2軸の単純さゆえの弱点を知ったうえで使うことが条件です。
よく指摘される弱点は3つあります。1つめは、競合が表に入っていないこと。同じ市場浸透でも、強い競合がいる市場と空いている市場では難しさがまるで違います。ここは3C分析やランチェスター戦略で補う必要があります。2つめは、既存か新規かの二択が粗いこと。実際には「少しだけ新しい市場」「半分新しい製品」のようなグラデーションがあり、マスの境目で判断が割れることもよくあります。迷ったときの判定基準は、前の章で書いたとおり相手の買い方と言葉です。3つめは、デジタルやAIの普及で製品をつくるコストが下がったことです。新製品開発のハードルは下がりましたが、新しい市場で信頼され、思い出してもらうまでの時間はそれほど縮んでいません。いまの時代は、右上より左下のマスのほうが重くなっていると感じています。
日本市場ならではの事情もあります。総務省統計局の人口推計が示すとおり、日本の人口は減少が続いています。国内の既存市場で浸透を深めるだけでは伸びしろが限られるため、海外やシニア層、訪日客といった新市場開拓の話が経営会議で出やすくなっています。そのときこそ、「新しい市場に既存の商品を持っていく」ことの難しさを、マトリクスで冷静に見積もっておく価値があると思います。
アンゾフの成長マトリクスに関するよくある質問
アンゾフの成長マトリクスを簡単に言うと何ですか?
「誰に売るか」と「何を売るか」がそれぞれ既存か新規かで、成長の方向を4つに分けた表です。4つは市場浸透・新市場開拓・新製品開発・多角化で、右下に行くほど知らないことが増えてリスクが高くなります。いまの打ち手がどのマスなのかを自覚するために使うと役立ちます。
アンゾフの成長マトリクスの事例にはどんなものがありますか?
よく引かれるのは、写真フィルムの技術を化粧品や医療・ヘルスケアに広げた富士フイルムの多角化です。ほかにも、既存客の購入頻度を上げる施策は市場浸透、国内で売れた商品の海外展開は新市場開拓、既存顧客向けの新シリーズは新製品開発に当たります。事例を見るときは、どのマスかより、手持ちの何を新しい場所へ運んだのかに注目すると学びが多いです。
4つの戦略の覚え方はありますか?
「新しいものがいくつあるか」で覚えると混乱しません。新しいものがゼロなら市場浸透、市場だけ新しければ新市場開拓、製品だけ新しければ新製品開発、両方新しければ多角化です。名前の中に「市場」と「製品」のどちらが新しいかが入っているので、そこを手がかりにすると覚えやすいと思います。
アンゾフの成長マトリクスは英語で何と言いますか?
英語では「Ansoff Matrix」や「Product-Market Growth Matrix」と呼ばれます。4つの戦略は、市場浸透がMarket Penetration、新市場開拓がMarket Development、新製品開発がProduct Development、多角化がDiversificationです。原典は1957年の論文「Strategies for Diversification」です。
おわりに──マスを選ぶ道具ではなく、選んだマスの怖さを知る道具
アンゾフの成長マトリクスは、4つの中から正解のマスを選ぶための表ではありません。自分がいま立っているマスを確かめ、そこに何が足りないのかを先に知っておくための表です。市場浸透なら焦らず深く、多角化なら時間と失敗を織り込んで。マスが変われば、同じ「成長」でも準備するものがまるで違います。
新しい挑戦がうまくいかないとき、ぼくたちはつい企画の中身を疑います。でも、本当に見直すべきなのは、挑戦の種類を見誤っていなかったかのほうかもしれません。
新規事業が失敗するのではない。多角化を、市場浸透の物差しで測るから失敗する。
いま手元にある計画を一行で書き出して、どのマスに入るかだけでも確かめてみる。それだけで、焦り方が少し変わると思います。