よそおいの話

ぼくが広告業界を目指した1冊──『広告は私たちに微笑みかける死体』を読んで博報堂に入った話

広告業界を目指したきっかけを聞かれることがある。

博報堂で13年、アクセンチュアで5年。マーケティングの世界にいる理由を辿っていくと、いつも同じ場所に行き着く。大学時代に読んだ1冊の本。オリビエーロ・トスカーニの『広告は私たちに微笑みかける死体』。

この本がなければ、ぼくは広告業界にいなかった。

母に言われた一言

最初のきっかけは、母の言葉だった。

「あなたは電通とかに向いてるんじゃない?」

恥ずかしい話だけれど、当時のぼくは電通を知らなかった。電気の会社かな、と真面目に思った。電気の会社は嫌だな、と。冗談のような本当の話。

でも母は、ぼくのことをよく見ていたのだと思う。子どもの頃からアイデアを考えるのが好きだった。何かを発想して、形にして、人に見せる。その繰り返しが楽しくて仕方なかった。母はそれを知っていて、クリエイティブやマーケティングの仕事を勧めたかったのだろう。

そのとき手にしたのが、トスカーニの本だった。

「広告は微笑みかける死体」という衝撃

『広告は私たちに微笑みかける死体』。タイトルだけで心を掴まれた。

著者のオリビエーロ・トスカーニは、イタリアのファッションブランド「ベネトン」の広告を18年間手がけたカメラマン。彼が作った広告は、ファッション広告の常識を全て壊した。

白い赤ちゃんに授乳する黒人の女性。エイズで亡くなる直前の患者と、その家族。戦争で使われた兵士の血染めの服。死刑囚のポートレート。

どれもファッション広告とは思えない。商品が一切映っていない。モデルが笑っていない。「ベネトンの服を買いましょう」とは一言も書かれていない。

なのに、世界中の人がこの広告を見て、考え、議論し、怒り、泣いた。

トスカーニが告発した「広告の罪」

トスカーニはこの本の冒頭で、「広告のニュルンベルク裁判」を宣言する。

広告には11の罪がある、と。巨額資金を浪費する罪。知性に対する罪。愚かさを崇拝する罪。排除と人種差別の罪。創造に対する罪。

広告は、幸福な家族を映し、白い歯で微笑むモデルを並べ、「これを買えば幸せになれる」と囁き続ける。でもその幸福は嘘で、そのモデルは作り物で、広告が約束する未来は存在しない。

だから「微笑みかける死体」なのだと。

表面は美しい。でも中身は死んでいる。生活者の知性を馬鹿にしている。世界にある本当の問題──差別、貧困、病、死──から目を逸らさせて、消費だけを促している。

当時のぼくにとって、この指摘は衝撃だった。広告という仕事の意味を、根本から問い直す言葉だった。

それでも広告がやりたいと思った理由

普通なら、この本を読んだら広告業界に幻滅するかもしれない。「広告は嘘だ」と言っている本を読んで、なぜ広告をやりたいと思ったのか。

それは、トスカーニが広告を否定していたのではなく、「広告の可能性」を信じていたからだと思う。

トスカーニがベネトンでやったことは、広告の破壊ではなかった。広告の再定義だった。商品を売るためではなく、人の意識を変えるために。美しい嘘をつくのではなく、目を背けたくなる現実を突きつけるために。

広告は、何百万人もの人の目に触れる。テレビ、雑誌、街頭。その影響力を「モノを売る」ためだけに使うのは、もったいない。もっと大きなことができるはず。トスカーニはそう言っていた。

ぼくはその言葉に、強く共感した。

広告は、告白

この本を読んでから、ぼくの中で「広告」の定義が変わった。

広告は「告白」だと思うようになった。

生活者は「何かを売りつけられたい」とは思っていない。「何かを伝えてほしい」と思っている。自分が知らなかったこと。気づいていなかった感情。言葉にできなかったモヤモヤ。それを、誰かが代わりに表現してくれること。

いい広告に触れたとき、人は「買わなきゃ」とは思わない。「わかる」と思う。「そうそう、それが言いたかった」と思う。その共感が、結果的に行動につながる。

だからぼくは、「伝わり合う広告」を日本で作りたいと思った。一方的に叫ぶのではなく、受け手の心に静かに届く広告。売るための言葉ではなく、伝えるための言葉。

それが、ぼくが広告業界を目指した理由。

博報堂を選んだ理由

就職活動のとき、母に言われた「電通」のことはもう知っていた。広告業界を調べる中で、電通も博報堂も、その他の代理店のことも理解した。

ぼくが博報堂を選んだのは、「生活者発想」という言葉に惹かれたから。

博報堂には「生活者発想」という理念がある。消費者を「消費する人」ではなく、「生活する人」として見る。買い物をする瞬間だけでなく、朝起きてから夜眠るまでの生活全体を見つめて、その中で広告が果たせる役割を考える。

トスカーニが言っていたことと、根っこが同じだとぼくは感じた。広告の相手は「消費者」ではなく「人間」。人の暮らしに寄り添って、何かを伝える。何かに気づいてもらう。その発想が、ぼくには合っていた。

13年間で、あの本の意味が変わった

博報堂に入って、実際に広告の現場に立った。

正直に言うと、トスカーニが描いた理想と現実は違った。クライアントの予算がある。売上目標がある。競合がいる。「人の意識を変えたい」なんて理想だけでは、企画は通らない。数字で語れなければ、誰も耳を貸してくれない。

でも、13年間の中で、何度かだけ──本当に何度かだけ──「これは伝わった」と感じた瞬間があった。

クライアントの社長が、ぼくたちが作った企業広告を見て「これは、うちの会社が本当に言いたかったことです」と言ってくれたとき。消費者調査で、広告を見た人が「なんか、この会社のことが好きになった」と答えてくれたとき。

売上が上がったかどうかより、そういう瞬間の方が、ぼくにとっては大きかった。

広告は、告白。その感覚は13年経っても変わらなかった。

アクセンチュアに移って、広告を外から見た

博報堂を辞めてアクセンチュアに移ったとき、広告を「外側」から見ることになった。

コンサルの世界では、広告は「施策のひとつ」に過ぎない。マーケティング戦略全体の中で、広告にいくら投じて、どれだけリターンがあるか。ROIで判断される。

最初は寂しかった。広告に込められた想いや、クリエイティブの力。それが「費用対効果」という言葉で切り捨てられる場面を、何度も見た。

でも、そこで気づいたこともある。広告が「告白」であるためには、届く仕組みが必要だということ。どれだけいい言葉を書いても、届かなければ意味がない。戦略と仕組みがあって、初めて「告白」は相手に届く。

博報堂で学んだ「伝える力」と、アクセンチュアで学んだ「届ける仕組み」。この両方が揃って、ようやくトスカーニが目指した「広告の力」に近づける気がした。

独立した今、この本を読み返す

独立してから、久しぶりにこの本を手に取った。

20年前に読んだときとは、感じ方が全然違う。

学生のときは「広告の可能性」にワクワクした。博報堂時代は「理想と現実のギャップ」に悩んだ。アクセンチュア時代は「戦略の重要性」を知った。

独立した今、一番響くのは、トスカーニの「覚悟」の部分。

彼はベネトンの広告で、世界中から非難された。宗教団体から訴えられた。広告業界の同業者からも批判された。でも、自分が正しいと思うことを、18年間やり続けた。

独立して、自分の名前で仕事をするようになって、この覚悟の重さがようやくわかった。誰かの看板の下ではなく、自分の信念で勝負すること。それがどれだけ怖くて、どれだけ自由か。

この本を、今のマーケターに勧める理由

SNSの時代になって、誰もが「発信者」になった。企業も個人も、毎日何かを伝えようとしている。

でも、タイムラインに流れてくるコンテンツの大半は、トスカーニが批判した「微笑みかける死体」と同じではないかとぼくは感じている。表面だけ綺麗で、中身がない。バズることを目的にして、本当に伝えたいことがない。

マーケティングの手法は変わった。デジタル広告、SNSマーケティング、インフルエンサー施策。ツールは増えた。でも、「何を伝えるか」という根本の問いは、30年前とまったく変わっていない。

トスカーニは問いかける。あなたは何を伝えたいのか。その広告に、あなたの「告白」はあるか。

この問いに答えられるマーケターは、どんな時代でも強いと思う。

ぼくがこの仕事を続けている理由も、結局はそこにある。伝えたいことがある。伝える相手がいる。その間を繋ぐのが、マーケティングという仕事の本質だと、今でも信じている。

もし今、広告やマーケティングの仕事に迷っている人がいたら、この本を手に取ってみてほしい。30年前の本だけれど、書かれていることは驚くほど新しい。そして、自分が「何のためにこの仕事をしているのか」を、きっと思い出させてくれる。

オリビエーロ・トスカーニ『広告は私たちに微笑みかける死体』。